能登・七尾市・一本杉通り。h24年度振興会が10年間の街つくりに対し、第6回ティファニー財団賞・伝統文化大賞を受賞。

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デカ山・チョンコ山が通る祭りの町

日本一の巨大さを誇り 平成28年にユネスコの無形文化遺産にも登録された「デカ山(青柏祭)」、小さいが素朴な曳山祭りの「チョンコ山」など、一本杉通りには曳山の山車が賑やかに通ります。

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デカ山(ユネスコ無形文化遺産)とは

土台の部分を組立中の魚町のデカ山

五月に行われる青柏祭(せいはくさい)の通称です。

この青柏祭は、昭和58年に国の重要無形文化財に登録されていますが、平成28年12月1日には、日本の18府県33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」の中の1つの曳山行事としてユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に正式に登録された。

 

祭りの起源ですが平安時代、歌人(梨壷の七人の一人)として有名な能登国守・源順(みなもとのしたごう)(能登国守期間 980~983。在任中能登国府の地で歿す)が定めたのが始まりと伝えられています。鍛冶町、魚町、府中町の三つの大きな山車が町衆の手で曳行されるが、これは一説には守護大名・能登畠山氏の時代からはじまったと言われる。

 

鍛冶町は山王神社(正式名・大地主神社)、魚町は気多本宮(正式には能登生国玉比古神社)、府中町は印鑰(いんにゃく)神社の氏子であり、それぞれの曳山は境内またはその近くから曳き出される(ただし魚町は前田利家の時代、小丸山から郊外に移されたので気多本宮は近くにないが旧気多本宮下から曳出される)。魚町のデカ山(一本杉通りのの東端・仙対橋において)

 

山車は船の形の逆台形をしている。とりどりの色の幕で飾り、歴史や芝居の一場面を表した大きな人形と町の子どもたちを載せている。いまは高さ12メートルだが江戸時代は18メートルもあったという。戦後、電線などへの対応のため高さを抑えたものに造りかえられた。人形も戦前は五体だった。この山車を曳き回すため一本杉通りの電柱は普通より高い。
音曲は山車の幕の中で演奏され、山車の前に若衆が立って、着物姿で手にザイといわれる飾り付きの棒と扇子を持って木遣り音頭を歌う。

めでためでたの若松さまよ
枝も栄える葉も茂る
ここの館はめでたい館
鶴が御紋に巣をかける
鶴は千年亀は万年
浦島太郎は八千年
ヨーオイトーナー

と言ったもので、辻辻で違う台詞となる。中には「ソーリャー、破れふんどし将棋の駒よ、角かと思たら金が出た ヨーオイトーナー」と言ったものもある。山車の車は木で作られており、若い衆が梃子(てこ)を差しながら誘導するのも一仕事だ。辻に来ると大梃子(おおでこ)に若い連中が鈴なりになって山の前の車輪を浮かし、地車を入れてくるりと回すのだが、それがまた見せ場となっている。

 (下の動画は2007年5月の魚町のデカ山の辻まわしの様子を撮影したもの。撮影者:橋本秀隆(一本杉町))

 

 

(下の動画は2009年5月4日 魚町のデカ山の曳行を撮影したもの。撮影者:橋本秀隆(一本杉町))

 

 

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チョンコ山のこと

戦前の生駒町のちょんこ山 うらべ家具店の浦辺健一さんの語りから抜粋・・・

三月も中頃になると、シャギリ(祭り囃し)のケイコ始めや。いよいよ春やなーと感じるときやね。三味線は大人が弾くけど、笛、鐘、太鼓は子供たちが囃す。青年会のオッチャン達から叱られながら練習をしている。可愛いもんや。これはズーっと続けて欲しいね。
チョンコ山は本宮さんの祭礼でね。一本杉の山車に飾る人形は南北朝時代の武将、楠木正成。この人形は昔から変わらんそうやね。

本山(山車が曳かれる日)の前日が人形見。オメデタのあった家に人形を飾らしてもらい、シャギリの子供たちや友人・知人を招いて「祭りゴッツォ」を振舞う。

ちょんこ山


前夜祭があければいよいよ祭りも本番や。大人も子供も麻から気分はウキウキ・ソワソワ。昼頃には各町内からの山車が勢ぞろい。生の囃しは一本杉だけやけどね。

二時頃、御輿が先導で山車が動き出す。山車の曳き手は子供たち。山車は百メートルほど動いては一休み。その何箇所かでお菓子を配るんやけど、これが子供たちには楽しみなんよ。

夕方五時近く終点の仮宮に山車が勢ぞろいしたら、お祓いしてもらう。

その後、町の役員や青年会の連中みんなで料理屋の二階へ上がり、大宴会が始まる。酔いが回ってくると「チョンコ山」の歌がでる。けっこう卑猥な歌で、ちょっと素面では歌えん歌や。
町会長の万歳三唱で祭りもめでたく打ち上げ、外へ出ると酔っ払ったほほに春の夜風が気持ちいい。町の中はまさに「祭りの後の静けさ」や。どこか遠くで若い衆の大声が時々聞こえてくる。今年も良い祭りやった。

(下の動画は2009年の「ちょんこ山」の様子を撮影したものです。撮影者:酒元昭二(一本杉町)

 

 

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 《曳山祭り以外の祭り》

奉燈祭

奉燈祭
七尾近辺では奉燈(ほうとう)と呼ばれるが、能登では一般的にはキリコ(切籠)と呼ばれる祭りである。奥能登に発祥し、中能登へ伝わった。
キリコが、みこし渡御に伴って道中を照らし、神を守りながら乱舞する祭りを総称して「キリコ祭り」と呼ぶ。能登の夏は、中能登以北の津々浦々でキリコ祭りで彩られる。
キリコは、神輿のように多くの人で担ぐスタイルのが基本だが、人手の少ないところや老齢化の進んだところなどは、下に車をつけて押して移動するところも出てきた。
祭りの特徴は、宵祭りにキリコが神社に終結し、出発の式典を済ませた後に、御輿にしたがって、海辺や川岸に設けられた御旅所に向い、そこで柱たいまつ炎上の祭典を行うところにあるといわれている。
普通、太鼓・鉦・笛を吹く子供らを乗せて担ぐ。
囃子の掛け声はサカッセイ、サカッサッセイ、イィヤッサカッサーの組み合わせで、「サカ」は「栄(える)」を、「いやさか(弥栄)」を意味しているとも言われている。
一本杉通りを構成する一本杉町や生駒町のある西部地区で行われる奉燈祭は、毎年7月の20日前後の第3または第4土曜日に行われ、別名、「夏越(なごし)の祭り」とも「西のお涼み」とも呼ばれる。

 

 

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平国祭

平国祭

  平国祭とは、能登一ノ宮として知られる(羽咋市寺家町の)気多(けた)大社の大祭である。気多大社の神輿が、神馬や多くの従者などを伴え(昔は百人前後の人が従った時代もあったようだ)、七尾の能登生国玉比古神社(通称:気多本宮)に赴いて還御する神事である。
江戸時代以前は、二月の「午」の日に出発し、「申」の日に気多本宮に至り、「酉」の日に還る慣わしだったそうだ。

現在は3月18日に出発し、21日に気多本宮に至り、23日に気多大社に還る5泊6日の行程となっている。基本的には、行きは俗に東往来筋と呼ばれる邑知潟地溝帯を東寄りに走る街道筋(旧国道159号線)を通って七尾市域に入り、還りは俗に西往来と呼ばれる邑知潟地溝帯を西よりに走る街道筋(県道2号線)を通って気多大社に戻る順路をとっている。

行きは「おいで祭り」と呼称され、22日の還りからは「おかえり祭り」と呼称が変る。
ある本によると、もともとの祭りの主旨は本来祈念祭行事であったが、故事による邑知潟の大蛇を退治したなどの神話が強調され、「平国祭(くにむけのまつり)」と呼称されたという。明治期になって、さらに「平国祭(へいこくさい)」と改称された。

日程やコース、日数は、明治以降も何度も変ったようだ。和倉や田鶴浜を通ったこともあるそうだ。コースの各地で大国主命が国平定の旅の途中にあった出来事に因んで弓を放つとか色々な神事が行われる。日程は、時代とともに色々変化し、現在のような5泊6日でなく、3泊4日の時代も結構長く続いたようだ。

このような装束を着て、神輿の還御を行う祭り・神事は、昔は全国各地にあったようだ。現在このような巡幸が行われているのは、それだけでも全国的に非常に珍しいのだが、巡行する距離などの規模としては、明治以前からでも全国的相当珍しい神事だったようだ。

七尾の祭り関連サイト

 

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青柏祭にまつわる伝説

昔七尾の山王神社へ毎年一人の美しい娘を人身御供として差し出す習わしがあった。ある年のこと、白羽の矢の立った家の主が何とかして娘の命を助ける方法がないものかと毎日思案していたが、良い方法は思い浮かばず、祭りの日は刻々とせまるばかりであった。

 

思案尽きた父親は、深夜、草木も眠る丑三つ刻、社殿に忍び込んでみたところ、何やらつぶやく声が聞こえる。「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後の‘しゅけん’は俺がここに潜んでいることを知るまい。」と言っていた。

 

そこで、娘の父親は、‘しゅけん’という名を頼りに急いで越後へ言ってみた。色々訪ねあるいて、やっと出会えたが、その‘しゅけん’とは全身真っ白な毛で覆われた狼であった。その狼の話によると、昔3匹の猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が他国(よそ)から越後のその地にやって来て人々に害を与えたため、その‘しゅけん’が2匹まで噛み殺した。だが他の一匹は逃がしてしまい、行方はわからなかった。その1匹が能登に隠れていたということだったのだ。

 

それでは、退治してやろうと、娘の父親を背中に乗せ、海の上を鳥のように飛んで七尾へ到着、祭の日、娘の身代わりになって唐櫃(とうひつ)に入り神前に供えられた。

 

その夜は暴風雨で荒れ、そして両者の格闘する物凄い物音が七尾の町を騒がした。翌朝、人々が行ってみると、大きな猿が朱に染まってうち倒れ、‘しゅけん’も、また冷たい骸(むくろ)となっていた。人々は、‘しゅけん’を手厚く葬り、また、猿のたたりを恐れて、人身御供の代わりに3台の山車を奉納することになった、ということだ。

能登・七尾一本杉通り

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